金本知憲選手引退試合

2012年10月9日火曜日。
大阪よみうりテレビの「かんさい情報ネットten!」の生放送を終え甲子園球場に。
その日は阪神タイガースの金本知憲選手の引退試合。
カーラジオでセンター前ヒットと盗塁、そして続く新井貴浩選手のヒットで本塁を狙うも好返球にタッチアウト、を聞きました。

2003年。
金本さんがFAでタイガースにやってきて甲子園での初登場の瞬間をよく覚えています。

いよいよ試合開始、一塁ベンチから8人の選手が飛び出しそれぞれの守備につくためにグラウンドに散ってゆく姿。
背番号6、かつて藤田平さんや和田豊さんがつけた番号を背中に新しくタイガースの一員になった彼を目で追っていると、かの人はなんと内野のラインをまたぎマウンドにあるピッチャープレートの後ろを通って真っ直ぐレフトの位置に向うではありませんか。

歴史の古い甲子園球場には様々な暗黙の了解があります。
たとえば、土の内野グラウンド。阪神園芸が精魂こめて慣らしたグラウンドは1回の表、先発投手が歩いてマウンドにあがるまでは誰もその中に入ることはありませんでした。
つまり、甲子園でのタイガースの選手は、ショートであろうとレフトであろうとぐるっとダイヤモンドの周りをまわって守備位置につくのです。
いや、タイガースにも数々の外国人外野手はいましたし、過去全員が必ずそうしていたかどうかは定かではないのですが、しかし、タイガースに入団し育った選手はもちろん、トレードでやって来たくらいではこの1回の表の守備につく時に土のグラウンドを横切る選手はまず、いないでしょう。
このことを裏付けるために、OBの川藤幸三さんに伺ったことがあります。
「タイガースの選手は、1回の表ダイヤモンドの中を走って守備に絶対についたりしないですよね?」
我が意を得たり、そんな表情で川藤さんは答えてくれました。
「昔はなぁ、新人選手よりグラウンド整備の方が偉い時期もあったんやで、んなことできるかいな!」

しかし、初登場の金本選手は鮮やかに、そりゃあ見事なまでに、内野の黒土のうえを真っ直ぐに、最短距離でレフトに向かって走っていったのであります。

それを見て私は思わず笑ってしまいました。
そして「ああ、FAで選手が来るということはこういうことなんだな」と感じたことをよく覚えています。
その驚きはやがてチームにとって素晴らしい効果となって現れました。
タイガースでの金本知憲選手を語る際、必ず言われる「タイガースを変えた男」という言葉。これに異論のあるタイガースファンなどいないでしょう。彼が無言で示した数々のスピリットや野球への姿勢が、どれほどの影響を選手は当然ながら、ファンにも与えたことか。

プライベートの場で一度、金本選手本人に守備につく時にマウンド後ろを通る選手は初めて見たと言ってみたことがあります。
「へ~、誰もやってなかったん、知らんわ、そんなん(笑)俺は広島時代からずっとそうやってきたもん」というごもっともな返事。
いや、いいんです、金本さん、その自然体がどれだけ頼もしくてチームにとって大事なことかと私は言いたかったんですから。

2010年、1492試合で連続フルイニングの記録が途絶えたあと、横浜から帰って来た甲子園で1回の表の守備につく選手達。あらためて金本さんがいないんだとまっさらなマウンドに向かう先発下柳投手を見ながら感じたことが昨日のことのようです。

そして迎えた2012年、10月9日の引退試合。
レフトに上がった最後のウイニングボールを満面の笑みで掴み試合は3-0で終了。
セレモニーが始まるまでの間、阪神園芸さんがグラウンド整備を始めました。きっと今までのどんな引退試合でも同じことをしてきたに違いありません。
けれど粛々とグラウンドを慣らしもう一度丁寧にラインを引きバッターボックスに白線を描いてゆくみなさんは、誰よりも金本さんが一番乗りに内野に足跡をつける選手であったことをご存じだったでしょう。

最後の最後、たったひとり金本知憲のためだけに整備されたグラウンド。その凪いだ湖面のような黒土を、大観衆の中おそらく初めてゆっくりとした足取りで歩いていった背番号6。

「この甲子園の左バッターボックスでフルスイングすることはもうありません」
私たちも寂しいです。
そしてそれは来年以降、誰の足跡もないマウンドに向かう先発投手を眺める度に思うことなのかもしれません。

ありがとうございました、どうか身体をいたわってあげてください。
二度の優勝を本当にありがとうございました。
同時代に生きてそのプレーを見ることが出来たこと、そしてこの先、タイガースファンやプロ野球ファンに鉄人と呼ばれた男の伝説を語り継ぐ機会を与えてくれたことに心から感謝します。

 

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