バンクーバー五輪直前

先日健康診断を受けてきました。大丈夫だと思っていても結果が分かるまでは何となく落ち着かない気分ですねぇ。
今日、病院に行ったらおかげさまで何事もなかったので安心しました。

今まで病気らしい病気もせずにいられたのも、ひとえに頑丈に生んでくれた両親のおかげ。本当に有難いことです。
まるでスポーツ選手の感謝の言葉のようですが、うんと若い時はそんなアスリートの言葉に共感するのも難しかったのに、幸か不幸か、今ではその意味が充分に理解できるような年齢になりました。

アスリートといえば、間もなくバンクーバー五輪が開催されます。

野球が好きなのは有名なようですが、実は私、野球のシーズンオフにはフィギュアスケートで盛り上がります。
仕事以外で旅をすることは案外少ないのに、野球とフィギュアの試合を観るためには結構地方遠征したりするので、まぁそれが旅行といえば旅行でしょうか。

今シーズンもすでにアイスショーを一本とグランプリファイナル、そして全日本選手権とせっせとスケートリンクに通いました。

この地方遠征もインターネットがなかった時代を思えば信じられないほど楽チン。
試合のチケットから現地に行く切符の手配、そして宿の確保から夕食の予約まで、すべて目の前にあるパソコンでできちゃいます。
ほんと、便利な時代になりました。

子供のころはパソコンどころか、五輪を録画するビデオデッキすらなかったというのに(笑)。

一番古い記憶は1972年札幌五輪の銅メダリスト、銀盤の妖精ジャネット・リン(わ、年齢バレバレ)。白いリンクに映える真っ赤な衣装は今も心に残っています。

その後、70年代後半から80年代頭にかけて佐野稔さん五十嵐文男さん渡部絵美さんら日本人選手が世界選手権で活躍するなど、フィギュア熱は細くですが冷めることなく続きました。

そして1984年のサラエボ五輪で、女子のカタリーナ・ビット、アイスダンスのトービル&ディーン(ボレロはあまりにも有名)に感激。

そののち男子のスコット・ハミルトンという、こういった今では伝説になったスケーターたちの演技を観たことでフィギュアファンへの道は大きく開かれ、直後の伊藤みどりさんの出現で、それは確固たるものになったのです。

フィギュアはその優雅な演技とは裏腹に大変過酷なスポーツであります。
実際、怪我のために若くしてアマチュア競技から引退をする選手のなんと多いことか。

それをイヤってほど思い知らされたのが、2002年ソルトレイク五輪で男子金メダルを獲得したロシアのアレクセイ・ヤグディン。

彼のショートプログラム「ウインター」とフリースケーティング「仮面の男」はスケート史に残る名プログラムだと信じていますが、その彼がソルトレイクの翌年、わずか23歳で先天性の怪我が原因でアマチュア競技から引退。これは心底ショックでした。

23歳といえば高卒のプロ野球選手なら1軍に定着していなくても無理はないし、大卒ならルーキーイヤーの年齢です。

さらに追い打ちをかけるように、長い間日本男子のエースとして牽引してきた本田武史さんも怪我のためにアマチュアのリンクを去りました。
ソルトレイクで4位に終わった時は間違いなく次のトリノ五輪でメダルを取れる!ファンの誰もがそう願っていたのに。

そんな出来事が、あらためてフィギュアスケートの現実というものを突きつけてきました。

彼らは、1シーズンにわずか3試合から5試合ほどしか演技をする機会はありません。

幸運にトップクラスの選手になれたとして、その時間がほんの数年でも不思議はない。
フィギュアスケートとはそういう競技なんだと。

そう思うと、好きな選手の競技プログラムをあといくつ見られるのかな、なんて、ふと考えてしまったりするのです。

私が忘れずにシングルだけでなくペア、アイスダンスと日本で視聴できる限りの競技大会放送を録画して見るようになったのもそのころからです。

プロに転向してからも素晴らしい演技を見せてくれる選手はたくさんいます。
けれどプロの演技はショーであって、競技会とは技術や緊張感が違って当然。

アマチュアが過酷であればあるほど、そしてギリギリの精神状態で技術を競い合うからこそ、昇華されるものの美しさが際立つのでしょう。

トリノ五輪からわずか4年。
選手たちにとってこの4年は、私のようにただ単純に歳を重ねたというだけではない、長さと重みを含んでいます。

バンクーバーオリンピックまで、あと少し。
みんながいい演技ができるようドキドキしながら、その日を待ちわびています。

 

 

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