生き残った記憶

東日本大震災:津波写真掲載広報、大反響で在庫切れ――岩手・宮古

今日そんな記事を読みました。
震災による津波被害の写真を特集した岩手県宮古市の広報誌「広報みやこ」が当初の3万部に加えて1万部を増刷してもわずか3日間で在庫がなくなったというニュース。

先週、岩手の沿岸部に実家のある友人が久々に我が家に遊びに来て、ランチを一緒にしました。
彼女の実家は長く続いた造り酒屋。今回の震災で工場、店、長年手伝ってくださっていた方の命や、弟さん妹さんの御自宅などを失くしてしまいました。幸い彼女のご家族はみなさん無事だったようですが、ご親戚などでは、まだ見つからない方もいるのだという話も聞きました。

いま、彼女は岩手から出て来たご両親と一緒に東京で住んでいます。
着のみ着のまま被災されたご親戚や知り合いの方々のためにと震災後しばらくしてからは救援物資の衣服集めに奔走していたようです。私も微力ながら協力させてもらいました。それからバタバタしていたのでしょう。ずっと連絡がなく、先日ようやっと、その友人と会えたのです。

ご家族が無事だったとはいえ、あの時はみなさん九死に一生を得たくらいのギリギリの瀬戸際だったようで、彼女の妹さんは小さな子供を背負い、義理の御両親とともに車もろとも津波に飲み込まれました。

苦難の末、やっとのことで4人は海の中で車から脱出。流されながらも、折れずにその地に植わっていた木、笹、流れ着く廃材に登ったまま真冬の冷たい濁流のなかを2時間近くも身動きが取れませんでした。

子供を背負った妹さん、実はこの時妊娠5カ月。

雪がちらつく中、彼女は途中何度も何度もご両親に「お母さん、お父さん、もうダメです」と冷たさに感覚のなくなった手で掴まっていられないと弱音を吐いたのだそうです。

その度に夫の両親は「あなたが諦めちゃだめ!あなたには子供がいるのよ、絶対に手を離しちゃだめ!」と励まし、また時には弱気になる彼女を叱責しながら声を掛け続けました。

それから2時間後、引き潮に注意しながら、流れ着く瓦礫や廃材を足場にかろうじて流されずに残った近所の家の二階に4人は辿り着くことが出来たのです。
そしてそこからさらに救助が来るまでの長い時間を待ったのち、やっと救助の小舟が来たときには、そのご両親はまず嫁と子供を先に行かせ、その後も「自分達よりまず若い人を」と最後までその場を動かなかったそうです。

その話を聞きながら、私は流れる涙を抑えることができませんでした。人というのは何とすごいものなのか。自分ならくじけそうになった妹さんの気持ちはよく分ります。
けれどその極限状態で嫁を励まし続けた義理の御両親のような行動が果たして出来るでしょうか。当然のことですが話している友人も泣いたままです。

続いて聞かせてくれたのは、彼女の実家の造り酒屋で長い間手伝ってくれていた56歳の男性、越田富士夫さんのこと。
地震が起こった時は、停電になったため一番必要だった現地の人達に情報が行き渡りませんでした。当然津波警報はおろか緊急アナウンスもサイレンすら流せません。
消防団の団員であった彼は誰かが不安に思う前から「津波が来るかもしれない!」と真っ先に消防署に向かい、サイレンが鳴らせないと知るや火の見櫓に登って半鐘を鳴らし続けました。
まさに津波がそこを襲い、濁流に飲み込まれる一瞬の寸前までずっと。

その彼が新酒を仕込んでいるありし日の姿の映ったDVDを友人が見せてくれました。そんなことが起こるとは想像だにしなかった平穏な造り酒屋の光景と、かつて賞を取ったこともある跡継ぎの開発したリキュールのボトルの誇らしげな写真、そして震災後の何もかもが攫われて跡形もなくなった想い出の地の現在の風景。

はるか数キロ先にまで流されたタンクや機材のひとつまで捜しあて、写真に収め、そしてそれを編集して音楽までつけたのは、造り酒屋を継いだ彼女の弟さんです。

その映像を見ながら、また泣いてしまいました。先程の御親戚、そして妹さんや越田さんの話も重なって今度はもう号泣です。涙は長い間止まりません。

正直、彼女とは20年以上の長い付き合いです。私の苦しい時、また彼女の苦しい時、何度も一緒に抱き合って泣きました。けれど今回の涙はそのどれとも違っています。
なんのために彼女はそのディスクを持ってきたのでしょう。
当然、私に見てもらいたいからに違いありません。

あの日、その場にいて生き残った人達のなかには聞いてもらいたい、見てもらいたいと思っている人が大勢います。
東京で震災の話になるととても遠慮して(それはそれで、すごく考えられた配慮だから責めるつもりはまったくありませんので誤解しないでください)、当事者に聞いちゃ失礼、物見遊山に思われては申し訳ないので現地に行きたいが行けない、そんな話をよく聞きます。

でも、あの日、あの時を迎えた人の中には(あくまでも中には、ですが)その話をしたい、その場所を見てもらいたいと思う人がたくさんいるのも事実です。

生き残った記憶、それらは辛く悲しい記憶ですが、同時にほかの誰かに伝えたいと身体の底から湧いてくる感情をともなっている記憶でもあるのです。
震災による津波被害の写真を特集した岩手県宮古市の広報誌「広報みやこ」が増刷してもあっと言う間に売り切れた理由が、よくわかります。
記事にあるように、あの災害を自分の身近な人に、そして後世に語り継ぎたい、そう願っている人は、3ヶ月たった今だからこそ別の場所に住む我々が思うより多分、ずっとずっと多いに違いありません。

 

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生き残った記憶 への2件のフィードバック

  1. 山根 修一 のコメント:

    いつも嘉姉がお世話になっております。また、この度は早々に救援物資をお送り頂き本当にありがとうございます。この震災で、ひと、家、車、近所、町内会、美しい自然、心…など、ありとあらゆるものが一瞬にして失われました。我が家は幸いなことに家族はかろうじて助かることが出来ましたが、惨状は報道でご覧のとおりです。巷では、よく『復興、復興』と聞きますが、被災した者にとっては、そんなことはまだまだ二の次であり、その日その日を噛み締めながら生きている…という感じです。

    • ケイコママ のコメント:

      山根さま
      わざわざコメントをありがとうございました。
      巷では「復興、復興」と聞くけれど、被災した者にとっては、その日その日を噛締めながら生きている・・・
      重い言葉です。
      その言葉を忘れないようにして、自分もいたいと思います。
      どうか奥様、ご両親にもよろしくお伝えくださいませ。

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